セロ弾きのゴーシュ その3
子どもの頃は「セロ弾きのゴーシュ」をあまり好きになれませんでした。動物たちに対する仕打ちや言葉から、ゴーシュは「イヤな人」としてしか見えなかったのです。また、その孤独な境遇に同情するよりも目をそむけたい感じがしました。ですから、ゴーシュの演奏がほめられるほど上達しても「そんなの関係ない」わけです。
ゴーシュは数日間かけて、その内面が変わっていくのですが、それも理解できずに「相手によって対応を変える人」ぐらいにしか思っていませんでした。
それから最後の場面でゴーシュはかっこうにだけ謝っています。でも、猫や狸の子に対しても充分ひどい言動があったはずで、子ども心に納得いきませんでした。(それについては最近新説が出されているようです)
しかし、大人になってみると、ゴーシュの偏屈さや不器用さが誰にでもありうることだとわかってきます。その彼が夜ごとの訪問者と接するうちに、数日で野ネズミに慈悲の心を表すまでに変わっていきます。彼は自分の変化に気づいておらず、演奏会のアンコール曲を弾いた後の周囲の反応でやっと気づかされるのです。だから、今では逆に愛すべき素敵な物語と感じられるようになりました。
宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉があります。他人との交流によって人はこのことに気づかされるのだ、というメッセージが「セロ弾きのゴーシュ」にこめられているのかもしれません。
だから、あの憎たらしい猫
さえも自分を幸せにする使者の一人だった、とゴーシュ君はうすうす気づいているに違いない、今の私にはそう思えるのです。
(写真はクリニックの夜景です。建物全体が飛翔する鳥のイメージで設計されたので、山へ飛び立とうとするかっこうの姿をほうふつとさせる‥でしょ?
)
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